弱さ・勇気・闘う

矢貴太朗

平素より大変お世話になっております。教育学部3年の矢貴太朗です。選手紹介の寝癖は気にしないで下さい。外見より睡眠を優先する人間なのでご容赦を。そして、拙い文章ですが、どうかお付き合い下さい。

「当たり前のこと」=「当たり前でない」

22年目の人生でやっと得られた教訓です。いや、「当たり前=当たり前じゃないの?」と思う方もいらっしゃると思いますが、実は違ったりします。
怪我に悩まされた今シーズンでした。こんなにもサッカーから離れたのは浪人ぶりでしょうか。浪人のあの1年間はきつかったですね。毎日勉強していた自分を褒めちぎりたいですね。撫でてあげたいです。しかし、怪我の時期はもっともっともっと辛いものでした。グラウンドに行ってもサッカーをすることができず、球拾いをしたり、練習動画を撮ったり、リハビリをしたり、気が塞ぎ込んでしまいます。自然と奥山家に帰る時間が早くなったりします。竜馬君いつもありがとう。
怪我から程遠い人生を送ってきた私にとってはやっぱりかなりきつかったですよ。いつの間にか私生活でも塞ぎこむことが多くなってしまい、当時は暗かったなと今でも思います。
けど、怪我っていいものですね。それまで「サッカーをできる環境がある」=「当たり前」という感覚に陥っていた私は、サッカーをすることを当然なことだと思い、その環境に甘んじていました。
人は自分が置かれている環境に対して自然とそれが「当たり前」になると新たに何かを欲しがって、自分の今ある環境に甘んじ、新たな欲をもったりします。あ、これ私の持論です。反論あれば待っていますね。案の定、私もサッカーができる環境に甘んじていました。勿体無いですよね、こんなに素晴らしい環境を「当たり前」って思っちゃうのって。ましては人工芝になり、最高の環境が整ったのに。例えばですが、両親が一生懸命働いて子供を大学まで通わせようとしてくれようとしても、子供にとり、それは「当たり前の感覚」でしかないという経験は皆さんあるのではないかと思います。

少し考えてみてください。
「自分の今ある環境は当たり前なの?」

怪我をしていない当時の自分であったら「当たり前でもないけど、今ある環境は自分が努力した賜物だから過ごしたいように過ごすことがベター」と答えていたのかなと思います。いざ文章にすると自分が情けないですね。けど、本当にそう思っていました。家でもご飯が出てくるのが当たり前だと思っていたし、何なら食事のバランスが悪かったりすると両親に不平不満を言ったり、部活へ行くことも正直作業化していた部分もあったり。どんどんボロが出てくるのでここまでで留めます。

当たり前ではないと思います。自分の今ある環境は。

「そんなこともう知っているよ。」って方も多いと思いますが、いやー、気づけてよかった。少しというか、かなり世界が明るくなりました。
よく「人は失ってからその大切さに気づく」と言いますよね。例えば今まで怪我から程遠い人生を送ってきた選手が、怪我でサッカーができなくなれば、サッカーができるという当たり前のことが、実はそうでなく幸せなことであったと気付かされますよね。
本当にその通りです。書いてみると、すごく理想みたいなことで、綺麗事だなって思うのですが、本当にこれに尽きると思います。
サッカーができる環境、最高な同期、先輩、後輩、支えてくれる両親、OBの方々など、決して当たり前と言ってはいけない環境があって初めて自分という存在が意味を持ちます。それに気付けることで、自然と感謝とか思いやりが生まれるのではないかと考えています。この感謝、思いやりは決して薄いものではないはずだし、とても大きなものになるはずです。
今までものすごく綺麗事を書いている自分ですが、気付けてもまだ環境に甘んじることがあります。何ならそもそもそこまで綺麗な人間でもありません。なので、そういう時は今ある当たり前のものが今後無くなると想定して、その時自分はどういう思いを持ったり、どう行動するのかを想像してみたりします。変人ですよね。だけど、ちょっと自分が変わったり、だいぶ自分が変わったりします。皆さんも1回「当たり前」を疑ってみてはいかがでしょうか。「当たり前」の大切さに気づくのかもしれません。

最後にサッカー部に少し還元してみます。
今ある「当たり前」の事に感謝しながらも更なる向上心をもって弛まぬ努力をするという姿勢がサッカー部をより次元高い団体にする暖かく、真摯な心意気なんじゃないかなって思います。ちょっとでも考えてくれたら嬉しいです。

以上です。国大した。

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