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堀井慶吾

こんにちは。横浜国立大学体育会サッカー部2年の堀井慶吾です。

今日は12月25日。特別な人と過ごす1日であると思います。

プレゼントは用意できましたか。
秘める想いを伝える準備はできていますか。

「25日も独り家で勉強なんかしちゃっているのだろうな」と思いながらこのブログを書いています。
私自身色恋に関しては興味が薄いものですから、多くの男性が言う「彼女欲しい!」というようなことを思うことはないのですが、このような特別な日には街の雰囲気に圧倒されてどこか世間から置いてきぼりにされているような感覚を覚え、ちょっと寂しくなっちゃったりする・・・こともないです。

私自身特段話したいことはなく、語るような過去も一切ございませんので、
発起人の「自分の好きなことを書けばいいよ」というお言葉に甘えて
今回は「私が興味を持ったお話」を1つ紹介します。

『徒然草』 (卜部兼好(兼好法師)) から。

能をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得てさし出でたらんこそ、いと心にくからめ」と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ひ得ることなし。いまだ堅固(けんご)かたほなるより、上手の中にまじりて、毀(そし)り笑はるるにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜む人、天性その骨(こつ)なけれども、道になづまず、みだりにせずして年を送れば、堪能(かんのう)の嗜まざるよりは、終(つい)に上手の位にいたり、徳たけ、人に許されて、双(ならび)なき名を得る事なり。
天下のものの上手といへども、始めは不堪(ふかん)の聞えもあり、無下の瑕瑾(かきん)もありき。されども、その人、道の掟正しく、これを重くして放埓(ほうらつ)せざれば、世の博士にて、万人(ばんにん)の師となる事、諸道かはるべからず。

『徒然草』 第150段より

訳(諸説あります)
これから芸事を身につけようとする人は、とにかく「ヘタクソなうちは誰にも見せたくない。こっそり練習して、ある程度見られるようになってから披露するのがカッコいい」と言うものだけど、そういうことを言っている人が最終的にモノになった例はひとつもない。
まだ未熟でヘタクソな頃から、上手くてベテランな人たちに混ざり、バカにされようと笑われようと恥ずかしがらないで、気にしないで、才能がなかったとしても、立ち止まらず、踏み外すこともなく、年を送っていけば、最終的に、その道の極みを嗜まなかった人よりも上の立場になれるし、しかも人望も備わって、多くの人に尊敬され、天下一の名声も得られるようになるものだ。
 格段に上手いと言われている人でも、最初は未熟だという評価を受けてきたし、実際、作品には決定的な欠陥とかもあったりした。それでも、道の掟に従い、これを重んじて、遊びほうけることのない人が、その道のプロとして、様々な人の先生となってきたのだ。これはどの道でも変わらない話だ。

古典作品には現代にも通用する理論や教えが多々見られます。
自身への戒めとして、あるいは教養としてこうした昔の人の考えに触れるのも悪くないですよ。

以上です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。

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